

実際の手紙はこちら↓ _は私が解読できず。◯◯はフルネームが出るので伏せました
(※追記 コメント欄で解読に協力してくださった方々ありがとうございました^^)

九月十日付けお便り拝見。小生体の__は_後可もなく不可もなしという状態 注射も一ヶ月ほど__したのでこのところしばらくやめています。マアこれから気候もよくなるし追々回復にむかうことでしょう。先日松岡姉上見舞いに来訪、上等な果物を頂戴し秋の香りを賞味しました。ついでがあったらそちらからもお礼を述べて下さい。
その節の__〇〇家へは行ってみないけれど和夫さんがお帰りになった模様とのこと、〇〇父様もお安心と存じます。
この二十三日は米駐軍は新潟へも進駐するよし、新聞に報じてあります。滅多な間違い事もないとは思うけれど万一ということもあるから新潟へ引揚げは今しばらく様子を見てからにしたらどうでしょう。しかし坊主の顔も見たくなったから近いうちまた一度連れてきて下さい。楽しみに待っています。昨日、上田の塚田さんから手紙がありました。

現在弟さんと妹さんと三人暮らしだそうです。戦敗でガッカリしている様子。南京にいた当時のことや庄司さん、_田さんのことなどしきりに恋しがっている様子がうかがわれます。
尚、当方一同元気、本月始めからぐずついたお天気が続いています、疎開した荷物もボツボツ母上とシノブが引取って来ました。女池の方も寒くならぬ前に寒くならぬ前に引取ったらと思います。
台南の兄からは手紙が来ませんが七月三十日発送のお金が到着したところを見ると一同無事なのでしょう。ではこれで失礼。
九月十五日 朝
孝吉
キヨ子殿
こんな手紙を受け取ったら「よかった元気そう、順調に回復している。そろそろ息子を連れて行く予定を立てて返事を書こう」って思うよなあ。
手紙から伝わる様子もそんなに無理している様子はない、ゆっくり治っていくだろうと本人も信じているように思える。しかしこの後あっという間に悪化して亡くなってしまう。父の成長を見ることもなく残念だった。祖母からは栄養失調だったと聞いている。死因の病名はわからないが、戦争でなければ長生きしたかもしれない。戦場に行かなくても爆撃を受けなくても失われた命はたくさんあった。
祖父はNHK(日本放送協会)ラジオ局の南京支局に勤務するため戦中駐在していたのだが、検索してもNHKが南京にあった証拠や資料が出てこない。
南京は南京事件で有名だが。まず数十万人も殺害されるほどその地に人がいただろうか。日本が侵略する時点で地元の抵抗にあい、紛争の犠牲者はありそうだが。数十万人だと蛮行で千人ならそうじゃない、と言いたいのではない。30万とか40万とかいう数字は私は信じられないということだ。
開拓した街には日本の企業が入り街がつくられ、現地の中国人の採用もあった。
当時の南京城周辺の風景の絵葉書は1話に添付されています↓
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コメント
コメント一覧 (18)
よくほとんど読めましたねー😅
カイエ
が
しました
https://www.nhk.or.jp/bunken/research/history/pdf/20200101_1.pdf
http://www.sdh-fact.com/CL02_2/48-2.pdf
カイエ
が
しました
達筆のお手紙 切ない‥‥
中国に渡った方達が戦局が変わって大変な苦労をされたことは想像に絶する
日本に帰る過酷な船の様子
帰れなかった子供達
昔「大地の子」ってドラマありましたね NHKで
お祖父様は子供の成長を見守りたかっただろうなと思うと‥‥
私は終戦記念日の頃になると
号泣した「火垂るの墓」を思い出します
平和ボケしてる日本ですが
戦争で空襲で そしてカイエさんのお祖父様のように家族と引き離されて亡くなられた多くの方達の無念な想いを忘れたらいけないと思います
現在もロシアのウクライナ侵攻は続いてますから
カイエ
が
しました
さて、南京事件について、いずれ我が子に教えねばと思い色々調べたんですが、世にいう南京大虐殺というのは東京裁判時に当の日本人たちが一番驚いたそうで。
で、南京城(市)に日本軍が進行したとき、すでに市内にはほぼ人はいなかったそうです。当時の場内に組織されていた西洋人による委員会の報告では城内の人口は20万人。南京事件(侵攻?)があったとされる日から約一ヶ月後には南京城へ戻る人たちが増え、25万人になったとか。
付け加えると南京侵攻があったとされる12月13日(だったかな?)から6週間ほど“掃討作戦”中だったにもかかわらず・・・。
東京裁判の時も事件の目撃者を探すもおらず、やっと証人にたった人も目撃ではなく伝聞だったと。日本兵や従軍記者たちによる個々の略奪、暴行、違法行為はあったようですが、世にいう“大虐殺”はそれを証明するにはあまりにも証拠がなく・・・。
日本軍、日本兵に絶対的な正義があるわけではないし、戦争はダメです。
ただ、こちらが戦争を望まなくても相手が攻めてきた時にはどうするか?どうやったら相手の戦意を挫くことができるのか?を太平洋諸国が対策を練るべき時がきたと思っています。
カイエ
が
しました
こうして記録として残すのは、大事なことだと思いました。
私の父は現在の北朝鮮で産まれ育ち、戦後の混乱の中、何とか日本に帰国したそうです。
まだ、幼児であったので記憶はおぼろげだったそうです。
その後、父の姉が当時の様子を克明に綴ってくれました。戦後の混乱の中、帰国できたことは奇跡だったそうです。
カイエ
が
しました
南京大虐殺はシナの創作、慰安婦、徴用工しかり、しかし戦争に負けるとくそみそにやられる。では勝って他国を支配すればいいのか。いずれも誤りじゃ。ロシアがいい例だ。今に国が亡びるじゃろう。
祖父は爺の生まれる1か月前に亡くなった。父は空襲が本格的になる前に転勤になった。それで爺が生まれたようなものだ。
父に尋ねたことがあった。「あの戦争勝つと思ったんかね。」「何を馬鹿な、少なくとも同僚は誰一人勝つとは思っていなかった。最初だけちょっと良かったが、今に負ける、今に負けると思っていたらやっぱりな。」
でも当時の父の日記にはそのようなことには一切触れていなかった。特に軍隊時代の日記は書きぶりすら違っていた。検閲があったので花鳥風月しか書かんかった、そんなもんだと思えば気楽だったなと言っていた。しかし父の同期はインパール作戦に従軍してあらかた死んだ。
インドは日本軍が来ると信じてあちこちで下級将校、下士官、兵が反乱を起こした。インド独立はガンジーの無抵抗主義の成果と言われているが、実際は英国はインド軍を制御不能になったため諦めたのじゃ。唯一の救い。
カイエ
が
しました
カイエさんの真面目な記事の時の、
線引きしつつも冷静な目で踏み込んだ話をしてくれるので、そう言った視点から今回の話を読めて嬉しいです。
私の祖父は沖縄県民ですが当時は農業の指導でフィリピンにいて終戦直前に帰郷したと言いますが、本当に命からがらだった様です。
ひとりひとりに言葉に尽くせぬ深い物語があると思います。
同時に心苦しいですが、全ての言葉を信じすぎてもいけない、冷静な目も必要ですね(もちろん自国に対しても)。
カイエ
が
しました
それぞれの立場や言い分があって、
一概に “どっちが悪” とは言い切れないし、
(言える場合も…)
勝った側により事実が湾曲される事も
歴史上多々ありますよね。
夫は空を守る仕事をしていますが、
戦争について意識する事は殆どありません。
それでも、毎年8月のこの時期だけは
「お国の為に」と、志願して
命を散らしていった若い兵士達や
否応なしに召集され異国で果てた
働き盛りの夫・父親達、
貧しく厳しい生活に耐え続けた
大多数の市民の皆さんに
想いを馳せずにいられません。
彼らが今の日本を見たらどう思うかな?
カイエ
が
しました
カイエさんの絵の最後のコマを見て「浜辺の歌」の3番の歌詞を思い出しました
学校などでは省略されて2番までしか習わないのですが
「疾風たちまち 潮を吹き 赤裳の裾ぞ 濡れもひじし 病みし我は既に癒えて 浜辺の真砂 まなこ今は」というものです
「強い風が吹いて波の飛沫で着物の裾がすっかり濡れてしまった
私の病気はよくなり 浜辺の真砂(まなこ)をみながら 私の愛しい子供(まなこ)は今どうしているかと気にかかる」というような意味だそうで
きっとお祖父様も同じ想いでおられたのだろうなと思いました
カイエ
が
しました
カイエ
が
しました
カイエ
が
しました
カイエ
が
しました
私は南京人の友人がいて彼の一族と親交がありますが、南京人はそういう話は一切してきません。
むしろ、レストランの隣のテーブルの酔っ払いがこちらの話している日本語を聞きつけてイチャモン付けてきたり、私より更に若い人たちが南京事件だの日本国は中国に謝罪していないだのと、まるで見てきたかのように議論をふっかけてきます。
中国で、南京事件の証拠写真とされているものも出典が怪しかったり矛盾点があったり(軍服の季節が辻褄合わないとか)、先の天皇や歴代総理大臣が訪中時に謝罪の言葉を述べていることを伝えても、こういう人たちは理論的な話には耳を塞ぐんですよねぇ。なので、そういう輩との議論は残念ながら無意味です。
カイエ
が
しました
カイエ
が
しました
父と年の離れた伯母がもしかすると結婚していたかもしれない相手は、無謀なインパール作戦で亡くなっています。
実家暮らしをしていた頃には、毎年8月15日のお昼はすいとんでした。
小学生の頃は原爆投下の日は必ず出校日で、戦争についての授業がありました。
親やおじいさんおばあさんから当時の事がわかる資料などを借りてくるように言われて、金属の供出のため祖父の刀剣・骨董などのコレクションを座敷に集めてる古写真などを持っていったものです。
人の記憶はあやふやになるものではありますが、親から当時の話を聞けてよかったと思っています。
大正生まれの孤児の人が、戦後苦労しながら文字を学び書いた本「馬の骨放浪記」を学生の時教授にすすめられ買ったのですが、30年経った今もまだ手元にあります。
戦前の中国の様子を、誰に忖度する立場でもない方が自由に書いているので、大変興味深く、一気に読んでしまいました。
70年代に出版されたものですので、運良く中古がありましたらおすすめします。
カイエ
が
しました