カイエ家族の戦争の記憶シリーズ
そんなん子供だけの船がやられたらおしまいじゃん…
(対馬丸事件 疎開途中の子供たちが米軍の攻撃で多数犠牲になった)
私の憶測だけど
何日もかかる渡航途中あちこちから子供たちの泣き叫ぶ声が上がることで極限のストレス状態にある人たちとトラブルを起こすことを恐れ「何歳以下の子供は別便!」という措置にしたんじゃないだろうか。それでも世話をする家族が最低一人付いてもよさそうなもんだけど…家庭によって違うおむつや食料の過不足なんかをいろいろ考慮したらもう、世話係を配属して完全別便!ってしたほうが合理的だったのかな。
特に当時は敗戦間近で誰もが命の不安の中にいた。防空壕から泣き出した乳幼児ごと母親が追い出される話も聞いたことがある。船内でのパニック防止のためじゃないかな。
祖父の遺影、子供の頃はおじさんに見えたけど自分がトシ取るとちゃんと若者に見える。
普通に真に受けて「なーんだこわいのか。いなくてよかった!」って思ってたわ笑
祖父母の遺品。当時の様子を模写する貴重な絵葉書
「最前線の仮眠」鶴田五郎氏筆
中村研一氏筆
「揚陸場」 吉田博氏筆
「南京光華門上より城内富貴山方面を望む」 竹内英男氏筆
南京というとどうしても南京事件についての論争が有名だけど、その後日本人がどう暮らしていたのかはあまり知られていない。祖父はNHK南京支局の職員だったし、三井物産など大きな会社も入り込んでそれなりに町は発展し豊かに暮らしていたようだ。
去年南京の記事を書いた時も「うちの祖父も、家族もいました」っていう人は現れなかった。
(ブログの認知度が低いからしかたないね!)
ひとつ見つけた資料を斜め読みしてなかなか興味深かったのでリンク。
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/hikiage/13/H_13_282_1.pdf
タイトルが「上海から引き揚げて」となっているが戦中の南京での暮らしが詳しく書かれておりその後上海の日本人収容所を経て帰国。
あまりにも出来事をクリアに詳しく記憶しているのに全体的に「無邪気がすぎる」?という印象で、生身の人の手記に思えなかったんだけど…まあきっと感情的にならずに文を書くのが上手な方なんでしょう…ね??
祖父母も敗戦前の帰国のタイミングを逃していたらこの方のような混乱を経験したのかもしれない。
ところでこの方は親子別々にされることなく3人で貨物船に乗って帰って来た。
2021年につづきを描きました
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コメント
コメント一覧 (25)
ホント無事に再会できて良かったですね!
1年前のこの話題の時、初コメを書いたんですが、お盆だから「おぼんこぼん」にしました😉
カイエ
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おばあちゃんにお話し聞いといてよかったですね。聞けるときに聞いとかないと本当に色々わからなくなります。とくに先の戦争にかかわる話では、いま自分がここにいる事のあやうさを思い知らされます。(南方の島で戦死(餓死)した父(私の祖父)のお墓参りの時にきのこ雲を見た私の母<広島>)それだけでも平和を望む理由になります。
私はおじいちゃんに縁がなく生きてお会いした人はいないんですが(残念ながら結婚した義理のお二人も他界済みでした)、カイエさんもですか?
カイエ
がしました
カイエ
がしました
何処の国のかも忘れました。子どものころテレビで観たと思いますが、どんな話かは忘れてもその場面だけはしっかり目と心に焼き付いています。
世界中でそういった悲劇があったのですね…。
カイエさんのお父様、親子で別々の船に。
私の恩師の妹さんは朝鮮半島で生まれてすぐお母様お兄様がた共々、やっとのことで船で帰国。
そのときはみなさんご一緒だったそうです。
彼女とは年齢が離れていますが今では友達です。
今も痩せて太れない彼女。オードリーヘップバーンのことと重なります。
いま、コロナ禍で大変、と私が言うと、子どものころに東京で戦争を体験した叔母は
「sakuraちゃん、屋根に爆弾おちてこないだけずっとましよ」と静かに言います。
カイエ
がしました
「秩序を保ちやすい大人集団」と「引率者が子供たちを制御する子供集団」に分けていたのかもしれませんね
小笠原丸のように、当時はソ連なんかが「終戦後に、しかも民間船なのに」平気で潜水艦で沈めに来る時代ですし、子供だけ乗せている船はせめてもの「無害だ、人道的に考えてくれ、沈めないでくれ」アピールになって子供たちを助けられると考えたのかも
カイエ
がしました
藤原紀香さんのお父さんは、その時まだ赤ちゃんだったのですが、祖父がなんとか日本まで連れて帰ってきたそうです。
今田耕二さんの祖父母もフィリピンのどこかの島の郵便局長をされていて、引き揚げる時に船が攻撃されて被弾はしたけれど、なんとか沈まずに日本まで辿り着いたそうです。
それぞれのご家庭で、壮絶な歴史がありますよね。
カイエ
がしました
数年前亡くなったおばあさまですが、引き上げ話をきいた事がありました。
当時自身は10代の子供で、母親とふたりで満州から引き上げてきたそう。
新潟(村上市)の人です。
日本へ向かう女の子のほとんどは坊主頭にして男の子に偽装。
母親がバリカンで髪を刈りこむとき、頭にぽたぽたと水があたり
(おかあさん泣いてる)とわかったそうです。
昔はね、髪は女の命でしたから…。
あちこちの人と一緒になり列車で移動もあったけど
中には途中でバレてロシア兵に悪戯され、精神的に耐えられず
途中で身を投げてしまった人もいたそうです。
静かで優しいおばあちゃんでしたが、戦争の話だけはハンパなく怖かったです。
本で読むのと、体験者が語るのとではリアリティが全然違う。
戦争は悲惨でもう二度としてはいけないものとして
聞いた事を次の世代へ伝えていかなければならないという想いもありますが
なかなか自分では口にできないものですね…。
祖父も兵隊として招集され、運よく生きて戻れた人でしたが
死ぬまで戦地の事は、一言も語りませんでした。
経験した人にとっては、他人が思う以上に辛過ぎて口に出来ない事も多いようです。
カイエ
がしました
話はかわりまして。私の父は東京出身で、7歳の頃が1番戦局が厳しかったそうです。火事対応用の近所の水を貯めているコンクリの小さな入れ物には金魚が泳いでいたのを覚えていたり。夜中に空中で飛行機が撃たれて火花が散るのを見て「キレイ」と言ったら「軍人さんが亡くなったのに」と殴られた話、米軍機は富士山を目指して飛んできて、そこから東と西に向かって飛んでいく、など息子が日本語補習校で戦争についての発表をする際に父から初めて聞いた戦時中のお話でした。
カイエ
がしました
終戦は満州にいて、両親が先に日本に還ったそうで、チチは
抑留されてシベリアで強制労働5年経験しました。
あまり話はしてくれませんでしたが、当時の生活はそらひど
かったようです。
当時の日本政府がソ連政府に対し、保証を放棄したので、抑留者に
は何の保証もありません。
シベリア鉄道くらい乗せてもらう権利はあると思うけどなー。
でも、乗りたい人はいないでしょうね。
カイエ
がしました
今でいう北朝鮮の工業地帯近くで商売していて、終戦すぐにロシアが攻めこんで来たので慌てて釜山まで逃げて船に乗ったと聞いています。
大叔父は当時9才で拳銃を持たされていて何度か握って威嚇することもあったと聞きました。
でもざっくりとした話で詳しいことを聞いても悲しい顔をするだけで色々あったんだと思います。
祖父は老人性鬱で大変でした。死ぬ間際は
同じ軍隊の仲間の名前を呼んでは泣いていたから。
あの押し黙る空気、あの間の中に祖父や大叔父は色々な場面を思い出していたと思うと子供の時だったけど不躾に聞きすぎたなと今でも申し訳ない気持ちになります。
カイエ
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終戦後、命からがら引き上げ船で博多に帰ってくる船旅の中で、妻を病気で亡くし、
幼い娘二人の手を引いて、故郷へ帰ってきたそうです。
その後、亡妻の実妹と再婚し(時代ですねぇ)、生まれたのが母です。
祖父は、私が物心つく前に亡くなったので、その頃の話を直接聞くことが出来ませんでした。
祖母は、以前はその頃の話は一切しなかったのですが、
現在、かなりの高齢でポヤポヤとしており、時折記憶が蘇るのか(こちらが聞いていようと聞いていなかろうと)、その頃の話をよくしてくれるようになりました。
従兄弟たちと一緒に、「おばあちゃんの話を手記にまとめて自費出版しようか」なんて話してます。
時節柄、こちらのニュースで長崎や広島の慰霊祭が淡々と映し出されますが、
日本では感じない、なんとも言えないモヤモヤした思いが込み上げます。
コドモみたいなことしか言えませんが、、、戦争がない平和な世界になりますように、、、
カイエ
がしました
私の曾祖父一家も満州から引き揚げる時、当時18才と16才の祖母の妹達は丸刈りで男の子のふりして命からがら船に乗れたそうです。私が住んでる市は、福岡の温泉の里なのですが、その温泉地でロシア人にイタズラされた女の人が、数ヵ月~一年ほど療養してから各故郷に帰って行かれたそうです。ほとんどの若い女の人が妊娠してて…酷い暴行と性病をロシア人から受けてしまい、温泉療養と治療を受けて完治してから全国のお家に帰って行くというムゴイ事があったそうです。私は去年、短いローカルニュースで偶然知ったのですが、誰も知らない言いたくない事だと思います。大叔母達も一歩間違えれば同じ目に遭ってたと思うと…。大叔父は二人硫黄島で亡くなり、戦争はほんとに酷い事で、絶対に繰り返してはいけない事ですよね…。
長くなりましたが、私の父方の家系は新潟県の村上市です。ですので、カイエさんに勝手に親近感持ってます(笑)それと、モラ夫の宝庫九州で暮らしてますので、ウンウンと日々共感しております。ツレ氏さんは、九州の男性に似てますよ(*´-`)
これからも頑張って下さい♪微力ながら応援しています!♪
カイエ
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わたしは敗戦して大陸から生命からがら帰国した方々の話をもっと大々的にテレビ放送したほうがいいんじゃないかなと思っています。
以前深夜の放送で、引き上げに船に乗っていた望まぬ妊娠した何名もの女性達が日本の地を見てから海面に身投げして命を断ったそうです。
日本の地ををひと目見てから死のうと思う気持ちはどういうものだったのか。不憫で思い出すと辛くなります。
フィクションの部分もあるそうですが「流れる星は生きている」藤原ていさん著を読んで、父や親戚の叔父、叔母、祖母が戦前満州に渡り、帰国した際の苦労話を子供の頃に聞くとはなしにに聞いていたことの点と点が繋がったことがありました。
叔父は船に乗っていた際に撃沈されて板につかまって海に浮かんでいたときに、機雷を爆破しながら日本の救助船が近づいて来たそうです。
爆破の衝撃で海水が震えてそれが体にズシーンズシーンと響いたことが忘れられないと言っていました。
救助船も狙撃されないように夜にならないと助けに来なかったそうです。
わたしの親族はほぼ新潟出身です。
新天地を求めて満州に渡ったひとが多いのかな。
カイエ
がしました